18. 17世紀後半のアイリッシュ・ハープ奏者
コネラン兄弟
17世紀後半に活躍していたアイリッシュ・ハープ奏者にコネラン兄弟という人物がいる。
トマス・コネランはアイルランド西部のスライゴーに生まれた。生年は諸説あり、1640年頃とするものや1625年とするものがあるが、はっきりとしたことはわからない。トマスの弟ウィリアム(ローレンスという説もある)も、ハープ奏者として著名だった。
コネラン兄弟はローリー・ダルと同様に、スコットランドで活躍しエディンバラの市参事会員になったともいわれている。コネランの故郷スライゴーはコナハト地方でありながらも、58パーセントの土地が収奪されていた。このことと、彼がスコットランドに渡って活動していたことは何らかの関連があるのかもしれない。
コネランは、1689年にアイルランドに戻り、リムリック近郊で亡くなったという説と、エディンバラで死亡したという説がある。これらの情報の根拠は不確かである。だが、コネランが1689年に起こったウィリアマイト戦争と関連していることは確かなようだ。
まず、コネランはスコットランドにおけるウィリアマイト戦争である「キリクランキーの戦い」にまつわる曲を作曲している。これは、1689年7月27日にスコットランドのパースシャーで、スコットランドのジャコバイト(ジェームズ2世の支持者)がウィリアム軍を破った戦闘である。
この曲は1694年頃にノーサンバーランドで編纂された『アトキンソン手稿譜[1]』に記録されている。
彼はマイルス・オライリーの≪リムリック・ラメンテーション≫を好んで演奏しており、後世18世紀のハープ奏者によってこの曲は別名「トマス・コネランが盗んだ曲」として知られていた。
伝承によると、彼は700以上のハープ音楽を作曲したといわれているが、現在まで伝えられている曲はわずか13曲程度である。
カロランはコネランの作品を崇敬しており、彼の作品を好んで演奏していたといわれる。その結果、元々コネランが作曲した≪モリー・マカルピン≫や≪モリー・セントジョージ≫がカロランの作として誤って伝えられるケースがあった。たとえば≪モリー・マカルピン≫は19世紀以降≪カロランの夢≫というタイトルで知られるようになった。したがって、現在カロランの作とされている曲の中にコネランの作品が混在している可能性もあるだろう。あるいは、彼が活躍していたスコットランドの民謡に溶け込んでいったものもあるだろう。
コネランは、1689年にアイルランド北部ダウン州アイヴィーの第5代マグニス子爵ブライアンと結婚したマーガレット・バーク[2]に≪レディ・アイヴィー≫という曲を献呈している。
彼は≪クーリン≫や≪セリア・コネラン≫など大変美しい旋律の曲を書いており、ハープ奏者にとっての貴重なレパートリーとなっている。その他のコネランの曲には、≪寡婦給与≫、≪マダム・レストランジ≫、≪秘密の恋人≫、≪ボニー・ジーン≫、≪サリー・ケリー≫、≪真実の愛は悩ましい苦痛≫などが知られる。
コネランは18世紀以降もその名が知られており、彼の作品がバラッド・オペラに採り入れられることもあった。
コネランほど有名ではないが、同時代に活躍していたハープ奏者にパトリック・リンドン[3]の名前が挙げられる。彼はアイルランド北部アーマー州の詩人兼ハープ奏者だった。リンドンの母シボーン・マカーダル[4]は詩人の家系に生まれ、作曲も行っていたといわれる。おそらくハープを演奏していたに違いない。
リンドンはハープ奏者というよりも詩人として有名だった。彼の作品は文字に書きとめられることなく朗唱され、口頭伝承によって人々の記憶にとどめられていた。彼は盲目の詩人シェーマス・ダル・マカルタ[5]とも交流を持っており、彼の詩に合わせてハープを弾いていた。マカルタの≪美しく優しいアリー・キャロル[6]≫や≪優しいバラ[7]≫に付けられた旋律はリンドンの作とされている。
リンドンには、息子パトリック[8]と娘(あるいは妹)モリーがいて、2人とも父と同様に詩人兼ハープ奏者となった[9]。彼らはおそらく父や祖母から詩とハープを学んだのであろう。リンドンの息子は18世紀末まで活動しており、盲目のパトリック・クインにハープを教えた。
[1] 『アトキンソン手稿譜 Atkinson MS』
[2] Margaret Burke (c.1673 – 1744)
[3] パトリック・リンドン Pádraig Mac Giolla Fhiondáin (c.1666-1733)
[4] シボーン・マカーダル Siubhán Mac Ardghail
[5] シェーマス・ダル・マカルタ Séamus Dall MacCuarta (c.1650-1733)
[6] Ailí Gheal Chiúin Ní Chearbhaill, Fair Gentle Ally Carroll
[7] Caoin-Róis, Gentle Rose
[8] パトリック・リンドン(子)Patrick Lindon (fl. 1755-1802)
[9] モリー・リンドンは≪トゥルアの森 Coillte Glasa an Triúcha, The Green Woods of Triuch≫、≪ジョセフ・プランケット Joseph Plunkett Esq. of Sleeve≫そして≪夜明け Deallradh an Lae, The Dawning of the Day≫を作曲したという説もある。≪トゥルアの森≫はアーサー・オニールが好んで演奏していたレパートリーである。≪夜明け≫はコネランの作という説もあり、真相は定かではない。[Ní Uallacháin, 2003] 346 Miss Mary Lindon or as she was usually called Mailligh Nic Giolla Fhiondáin, who was a young woman of great talent and composed many sweet songs, among which is admired Coillte Glasa an Triúcha (The GreenWoods of Triuch), Joseph Plunkett Esq. of Sleeve and Deallradh an Lae (The Dawning of the Day). モリーはリンドン(父)の姉妹であるという説もある。