5. ケルト社会におけるバードという階級

ケルト社会におけるバードという階級

 

『ニューグローヴ世界音楽大事典』のBardの項目によると、この語は

「ほぼ確実にインド=ヨーロッパ語に由来するのだが、ケルト語族以外では、明確な同語源の言葉は見当たらない。ケルト語に共通のbardosという言葉からゲール語、マン島語、アイルランド語のbard、ウェールズ語のbardd、コーンウォル語のbarth、ブルターニュ語のbarzという言葉が派生している」と記されている。

 

古代ローマの歴史家ストラボン (b.c.63-23) はバードについて次のように記述している。

「バード(bardoi)は歌手であり、詩人であり、ウァーテス(ouateis)は占い師で自然哲学者である。一方ドゥルイド(druïdai)は、自然哲学に加えて、道徳哲学の研究もする」。

バード芸術におけるカースト制度は、「フィリ fili」すなわち詩人を頂点として元々6つの階層に分けられていた。バードはその中で、上から第4番目の身分だった。8世紀ごろになると、詩人とバードは分裂したという。詩人はさらに、それぞれの知識によって、7つの階級に分かれていた。一方、バードは「自由で、特権的なバードsóerbaird」と「卑しいバードdóerbaird」に大きく分かれ、さらにそれぞれが8等級に分かれていた。

ウォーカー Joseph Cooper Walker (1761-1810) は詩人の7つの階級について、「ブレホン法」の中から詳しく解説している。それによると、階級の低い順から、1. Fochlucan、2. Mac-Fuirmidh、3. Doss、4. Canaith、5. Cli、6. Anstruth、7. Ollamh が存在した。それぞれの階級に求められる能力、および彼らが受け取る報酬が異なっていた。この中で最高位だったのが「オラム」であり、その称号を得るために必要な条件は次の通りであった。

 

「オラムは詩における4つの主要な枝に熟達しており、それぞれについて3年ずつ研究しなくてはいけない。彼には、50の物語の7倍の記憶力が必要とされる。彼が受け取る報酬は、20頭の乳の出る雌牛である。24人の男が、彼に常時仕えなければならない」。

 

詩人の長であるオラムは、小さな王と同等の力を持つものとしてみなされていたという。1200年から1650年頃まで、彼らの芸術はきわめて洗練され、厳格な韻律に基づく詩作が行われるようになった。この時代に詩人と、ハープ奏者と、そして「リァカーラ reacaire」と呼ばれる朗誦者は、共同作業を行っていた。つまり、詩人が作った詩をハープ奏者の伴奏に合わせて、朗誦者が歌うのである。朗誦者は詩人が作った詩をすべて暗誦して朗誦しなくてはいけなかった。詩人は詩を作り、演奏者に指示を出すだけで、自分は何もしない。

この中で最も尊敬されているのが詩人であり、最も身分が低かったのは、朗誦者であった。彼らは、演奏の報酬として、馬やマント、雌牛や銀のゴブレットなどを受け取っていた。この演奏の様子は、ジョン・デリックの『アイルランドの印象』(1578) に描かれている。

ウェールズにもこれと同様の習慣が残されていた。ディヴィド・パウエル[1]は、12世紀のサンカルヴァンのカラドック[2]が記した歴史書を英訳した『カンブリアの歴史』[3] (1584)の中で、ウェールズに存在した3種類の「ミンストレル」について記述している。パウエルによると、ウェールズでは最も身分の高い詩人のことを「バード Beirdh」と呼んでおり、その次にハープとクルースの奏者、そして「アトカニアイド Atcaneaid」と呼ばれる朗誦者を例に挙げている。

ちなみにウェールズでオラムに相当する称号は「ペンケルズ Pencerdd」と呼ばれた。この称号を得るための条件は『グリフィズ・アプ・カナンの法令』という文書に明記されている。「アイステズヴォド Eisteddfod」というバードの集会に参加し、必要な試験を受けることによって正式に承認されていたのである。

アイルランドのバードによるハープ音楽がどのようなものだったのか、その実像は明らかではない。なぜなら、その音楽は基本的に楽譜に記録されることはなかったからである。一方で、ウェールズのバード音楽はその実例が楽譜として残されている。それが、1613年頃に編纂された『ロバート・アプ・ヒュー手稿譜』である。これは、ウェールズ北西部のアングルシー島出身のバード、ロバート・アプ・ヒュー[4]が編纂したもので、アルファベットを用いたタブラチュアによって記譜されている。この楽譜はアプ・ヒューの死後1720年代に再発見された。学者や音楽家の注目を集め、調査が行われたが、その当時既にこの楽譜に書かれている音楽を理解できるものはいなかったのである。


[1] ディヴィド・パウエルDavid Powell (1552?-1598)

[2] サンカルヴァンのカラドックCaradoc of Llancarfan

[3] 『カンブリアの歴史The Historie of Cambria』

[4] ロバート・アプ・ヒュー Robert ap Huw (c.1580-1665)

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