12. 16世紀後半から17世紀前半のウェールズ

12. 16世紀後半から17世紀前半のウェールズ

16世紀後半から17世紀前半にかけて、黄金時代を迎えていたアイリッシュ・ハープとは対照的に、ウェールズのハープ音楽は衰退しつつあった。1485年にウェールズ出身のヘンリー7世からはじまるテューダー朝において、ウェールズの地主階級たちはロンドンに移住するようになり、ウェールズの英国化が進んだ。そして、ヘンリー8世の時代、16世紀中葉の「統合法」により、ウェールズはイングランドに併合されることになる。

パトロンの音楽趣味も英国風になっていった結果、古いウェールズのハープ音楽は好まれなくなった。16世紀後半の英国でアイリッシュ・ハープが流行していたため、ウェールズでもアイリッシュ・ハープが演奏されるようになっていた。たとえば、1580年代のウェールズの貴族社会でトマス・リチャーズ[1]というウェールズ人の金属弦アイリッシュ・ハープの奏者が活躍していた。また、ストラタ・フロリダなどの修道院に学者として雇われていたウェールズのバードは、ヘンリー8世の「修道院解散」によって、ひとつの拠り所を失うことになった。

ウェールズのバードたちはウェールズ各地を自由に旅し、家々を訪れて音楽を演奏し供応されていた。毎年クリスマス、イースター、聖霊降臨節に巡業を行い、3年に1度「クレラclera」と呼ばれる大巡業を行う習慣があった。しかし、特に北ウェールズを中心に浮浪者まがいの「自称バード」が現れるようになり、治安を脅かす社会問題となっていた。彼らは適切な音楽や詩の能力もなく、勝手に人の家に上がり込んで物乞いのような行為を行っていたのだ。このような自称バードは当時「雑草 chwyn」と呼ばれ、正式なバードと区別される必要があった。

このような雑草を取り締まる目的で、1523年にウェールズ北西部のカイルウィス Caerwys で「アイステズヴォド(集会)[2]」が開催された。この集会では、バードたちの技能が確認された。適切な能力が認められたものには、「ペンケルズ(親方)」や「ディスギブル・ペンケルザイス(親方の徒弟)」などの称号が与えられた。ペンケルズのさらに上位には「ペンケルズ・アスロ(親方の先生)」さらに最高位には「アリアンドゥルス(銀杯)」という称号があった[3]。これらの称号を得るための条件は「グリフィズ・アプ・カナンの法令」という文章によって規定されていた。この文書は版によって内容が異なるのだが、たとえば、ペンケルズになるためには次のような条件が課せられていた。

 

l  「30の競技会向けのクリマイ」、「3つのカデイリアイ[4]」、「3つのコロブナイ[5]」を習得していること。

さらに銀のメダルを得る場合には

l  「4つのコロブナイ」と「4つのカデイリアイ」、「24のクリマイ・キトゲルズ[6]と、それに付随する24のメジャー」を習得していること。

ハープ奏者の場合は

l  「トゥリ・ムゥフル・オディドグ[7]」の習得、および自作の歌の提出すること。

 

が求められた。ここに現れる、クリマイやカデイリアイ、コロブナイというものは、ウェールズのバード音楽独自の「楽種」を指している。

さらに法令には「ペンケルズは任期中にクリマイとカデイリアイを作曲しなくてはならない。彼自身はこの音楽を歌わない」と記されている。これは、16世紀以前のアイルランドの詩人が作詞作曲を行うが自ら演じなかったことと似ている。

上記の楽種について具体的に知る手がかりとなる音楽資料が残されている。それが、1613年頃に編纂されたハープ音楽の楽譜『ロバート・アプ・ヒュー手稿譜』である。これは17世紀以前のバード音楽を、実践者自身が体系的に保存しようと試みたものとして、ほぼ唯一の資料である。

 編纂者ロバート・アプ・ヒューは1580年頃、ウェールズ北西部のアングルシー島に生まれた。彼の祖父は有名な詩人ショーン・ブリュイノッグ[8]であり、代々バードの家系だった。アプ・ヒューはジェームズ1世の宮廷でハープを演奏していたこともあった。それは、詩人ヒュー・マハノーがアプ・ヒューにあてて書いた詩や、アプ・ヒュー自身の遺書から推察できる。ただし、アプ・ヒューに対する支払記録は残されておらず、彼がいつ頃ジェームズ1世の宮廷にいたのかは明らかではない。

 1594年末から95年の初頭に「サンゼイサントの少年ハープ奏者が」ジェントルマンの館でハープを演奏し、6ペンスの報酬を受け取っている。この人物はアプ・ヒューだと考えられている。これはもっとも低い称号である「ディスギブル・イスバース(見習い徒弟)[9]」が受け取る報酬に一致している。

 アプ・ヒューは1599年、メリオネス Merioneth のジェントルマンの娘をかどわかし、「リネンと手稿譜」を無断で持ち去った罪によりバンガーで裁判にかけられた。また、1600年4月には、別の女性からも「真鍮製の杯3つ、ベットカバー、毛布、ペチコート」を持ち去った罪でリシンの法廷で告訴されている。その後、彼はリシンで投獄されたが、翌月脱獄している。

 その後のアプ・ヒューの詳しい生涯についてはわかっていないことが多い。ウェールズ北西部の詩人や音楽家、知識人サークルとの交流を持ち、1613年頃にハープの楽譜を編纂した。その後、1615年までにはペンケルズの称号を得ていたことが知られている。アプ・ヒューは1665年に死亡し、彼の楽器は名付け子のロバート・エドワーズに遺贈された。その楽器には銀でできた王家の紋章が取り付けられていたという。

アプ・ヒューが編纂した楽譜は、四男ヘンリー・ヒューズ[10]に遺贈され、詩人ジョン・プリチャード・プリース[11]を経て、1720年代後半に考古研究家ルイス・モリス[12]の手に渡った。その後、18世紀から現代に至るまで、多くの音楽家や音楽学者がこの手稿譜に関心を持ち、解読を試みてきた。一例をあげると、盲目のハープ奏者ジョン・パリー、音楽学者チャールズ・バーニー、フランス人ヴァイオリニストバルテレモン、ベルギー人音楽学者フェティス、ヴィクトリア女王のウェールズ人ハープ奏者ジョン・トマス、アーノルド・ドルメッチ[13]らの名を挙げられる。だが、ルイス・モリスの時代にはすでに、この楽譜を解読できるものはおらず、そこに書かれた古いバードの音楽を理解できるものもいなかった。したがって、ロバート・アプ・ヒューはウェールズで最後のバードだったと考えられている。


[1] Thomas Richards

[2] 「アイステズヴォド Eisteddfod(集会)」

[3] 「ペンケルズ Pencerdd(音楽の親方)」「ディスギブル・ペンケルザイス Disgybl Pencerddaidd(親方の徒弟)」「ペンケルズ・アスロ Pencerdd Athro (親方の先生)」「アリアンドゥルス Ariandlws(銀杯)」

[4] カデイリアイcadeiriau

[5] コロブナイcolofnau

[6] クリマイ・キトゲルズ clymau cytgerdd

[7] トゥリ・ムゥフル・オディドグTri mwchwl odidog

[8] ショーン・ブリュイノッグSiôn Brwynog (1510-62)

[9] ディスギブル・イスバース(見習い徒弟)Disgybl ysbâs

[10] ヘンリー・ヒューズHenry Hughes(b.c.1635)

[11] ジョン・プリチャード・プリースJohn Prichard Prys (d.1724)

[12] ルイス・モリスLewis Morris (1701-65)

[13] ジョン・パリーJohn Parry (1710? -82)、チャールズ・バーニーCharles Burney (1726-1814)、バルテレモンBarthelemon François-Hyppolyte (1741-1808)、フェティスFrançois-Joseph Fêtis (1784-1871)、ジョン・トマスJohn Thomas (1826-1913)、アーノルド・ドルメッチArnold Dolmetsch (1858-1940)

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