4. 12世紀 ギラルドゥス・カンブレンシス

12世紀 ギラルドゥス・カンブレンシス

12世紀には、ウェールズ人聖職者ギラルドゥス・カンブレンシス[1]が、ジョン皇太子のアイルランド遠征に随行していた。『アイルランド地誌』(1188)の中で、カンブレンシスは当時のアイルランド人のハープに対する情熱と熟練した技術について生き生きと描写している。

 

「この民が熱心におこなうことでは楽器演奏だけが賞賛に値すると思う。これに関してはわれわれが知っている民の中で断然優れている。われわれに馴染み深いブリタニアの曲のように長くゆっくりしておらず、実に速く、旋律は甘く快い。彼らがひじょうにすばやく指をあやつるのに音楽的調和が乱れないのには驚かされる。またどの点をとっても完全な技芸によって、複雑な形式の、ゆたかで複雑なポリフォニーの中、心地良い速度で、異なるものが一緒になり、不調和のものが調和して、旋律が共鳴し仕上げられることにも」。(有光秀行訳)

 

彼はこれ以外の部分では、アイルランド人を野蛮な民族として見下しているのだが、音楽については賞賛を惜しまなかった。11世紀にグリフィズ・アプ・カナンが行った音楽改革の伝承にも関わらず、アイルランドとブリタニア(ウェールズ)の音楽は全く異なるものだったことがわかる。カンブレンシスは続けて次のように書いている。

 

「アイルランドで用いられ楽しまれる楽器はふたつだけ、すなわちハープとティンパヌムである。スコットランドではハープ、ティンパヌム、クルースの三つ、ウェールズはハープ、笛、クルースである」。

 

このように、アイルランド、スコットランド、ウェールズに共通する楽器はハープだった。ここでいうティンパヌムとは、先述の金属弦のライアであるティンパンを指している。カンブレンシスはティンパンがウェールズで演奏されていたことについて触れていないが、実際にはティンパンはウェールズでも演奏されていたようだ。その証拠に1330年頃に書かれたウェールズの手稿譜(AB MS Peniarth 20)に次のような記述がある。

 

「主要な技芸が3つある。すなわち、弦楽器と管楽器と言葉である。主要な弦楽器の技芸が3つある。すなわち、クルースとハープとティンパンの技芸である。主要な管楽器の技芸が3つある。すなわち、オルガンと笛とバグパイプである。主要な言葉の技芸が3つある。すなわち、詩作と朗誦とハープによる弾き歌いである」。

 

1547年ウィリアム・ソールズベリが編纂した『英=ウェールズ語辞書』にもティンパンの項目が確認できる。もちろん、これらの記録はカンブレンシスの時代よりも後のことなので、12世紀末のウェールズではティンパンはそれほど浸透していなかったのかもしれない。

カンブレンシスは 「アイルランド人は皮の弦ではなく青銅弦を用いる」と書いており、12世紀のアイリッシュ・ハープが金属弦だったことが確認できる。

(カンブレンシス以前)11世紀から12世紀頃に活躍していた奏者の名前がわずかに残されている。『アルスター年代記』[2]によれば、1110年にキルデアのフェルドムナハ[3]という盲目のハープマスターが死亡したと書かれている。また『フォーマスターズ年代記』[4]にはアウリー・マキナイニョーラッハ [5]というハープ奏者の「オラム ollamh」が1168年に死亡したと書かれている。

オラムとはアイルランドに存在した「バード Bard」と呼ばれる職業音楽家の称号を指している。ここでバードについて説明する必要があるだろう。


[1] ギラルドゥス・カンブレンシス Giraldus Cambrensis (c.1146-c.1223)

[2] 『アルスター年代記 Annals of Ulster』

[3] フェルドムナハ Ferdomnach

[4] 『フォーマスターズ年代記 Annals of the four masters』

[5] アウリー・マキナイニョーラッハ Amhlaeibh Mac Innaighneorach

コメントを残す