17.ウィリアマイト戦争

17.ウィリアマイト戦争

アイルランドの18世紀は、1691年のウィリアマイト戦争後の体制によって幕を開けた。アイルランド史の大きな転換点となるこの戦争の経緯について概説する必要があろう。

1685年のチャールズ2世の崩御に伴い、弟のジェームズ2世が英国国王に即位する彼はイングランドのカトリック化を積極的に推進し、プロテスタントの議会や国民からの反感を買っていた。その結果、議会はジェームズ2世の長女メアリと婚姻関係にあったプロテスタントのオランダ総督オレンジ公ウィリアムを国王として招き、ジェームズ2世はウィリアムと戦うことなくフランスに亡命した。この1688年の「名誉革命」によって、ウィリアムはメアリ2世とともにウィリアム3世として共同即位した。翌1689年ジェームズ2世はいとこであるフランス王ルイ14世の支援を受けて、フランス、イングランド、スコットランドの支持者と共にキンセールに上陸した。

1690年ウィリアム3世が率いる軍隊がアイルランド北部のカリクファーガスに上陸、その後南進し、ドロヘダ近郊のボイン川でジェームズ軍と対峙した。これが「ボイン川の戦い」としてアイルランド史上有名な戦闘である。ジェームズ2世はダブリンに敗走し、南部のキンセールからフランスに亡命した。

ジェームズ2世が亡命したにもかかわらず、アイルランドにおけるウィリアム軍とカトリック勢力の戦いは終わらなかった。特にシャノン川以西では執拗な抵抗が続き、戦闘が継続していた。1691年オーリム[1]で激しい戦闘が行われ、「ハープ奏者エドワード」として知られていたエドワード・フィッツジェラルド[2]が殺害された。カトリック勢力はアイルランド南西の都市リムリックで、パトリック・サースフィールド[3]を指導者として最後の抵抗を行った。

1691年9月23日、ついに連合軍はウィリアマイト軍に降伏した。同年10月3日に「リムリック条約」が結ばれウィリアマイト戦争は終戦を迎えた。兵士たちはフランスに亡命するか、アイルランドにとどまるか選択を迫られた。1,000人の兵士はウィリアム軍に再編され、2,000人は武装解除した。12,000人のアイルランド人兵士は、雪辱を誓ってサースフィールドと共にフランスに去り、ジェームズ2世の指揮下に再編された[4]。彼らは「ワイルド・ギースWild Geese」と呼ばれる傭兵として、ルイ14世やマリア・テレジアの軍隊で雇われた。≪リムリック・ラメンテーション≫や≪ワイルド・ギース≫は、この出来事にまつわるハープ音楽であり、キャヴァン州のマイルス・オライリー[5]によって作曲された。


[1] オーリムAughrim

[2] エドワード・フィッツジェラルドEdward FitzGerald, the last Baron of Cluain

[3] パトリック・サースフィールドPatrick Sarsfield (c.1660-1693)

[4] [Simms, The war of the two kings, 1685-91, 1976] 506-507

[5] Miles Reilly

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