16. アイリッシュ・ハープの変換点
16世紀後半から17世紀前半にかけて、楽器が大型化し、クロマティック・ハープが作られるようになった。その一方で、この頃、古くからの演奏習慣にも変化が見られるようになった。
ひとつは、詩人、ハープ奏者、朗唱者による分業の演奏様式がなくなったことである。ルーク・ガーノン[1]の『アイルランドの言説[2]』(1620) に次のような記録がある。
「晩餐会の半ばに差しかかるとハープ奏者が曲を演奏し始め、古代に作られた詩を歌う。もし彼がよい詩人であれば、この場で歌をつくることができるだろう[3]」。
ガーノンはハープ奏者が詩作と演奏と朗誦のすべてを担っていることについて記している。この頃から少しずつ古い演奏様式が廃れていったのだろう。この変化の背景には何があったのだろうか。
1601年に、スペイン=アイルランドの連合軍が「キンセールの戦い The battle of Kinsale」でエリザベス1世に敗れた。その後1607年、ドニゴールの有力な領主だったローリー・オドネル[4]と、ヒュー・オニール[5]が国外に亡命する「伯爵の逃亡Flight of the Earls」という事件があった。この時、彼らは多くのアイルランド人貴族と共に、ハープ奏者たちを大陸に連れて行った。これらの古いゲール文化の保護者がアイルランドを去ったことにより、アイルランド古来の音楽文化は衰退したと考えられている。詩人、ハープ奏者、朗唱者の分業による演奏様式もこの頃を境にして次第に失われていったのである。
この頃、彼らが演奏していた音楽のレパートリーもその大半が失われてしまったに違いない。アイルランドの場合、17世紀以前のハープ音楽の楽譜がほとんど残されていない。したがって、アイルランドのバードたちが演奏していた具体的な音楽については不明であり、伯爵の逃亡によって、古い音楽がどの程度失われてしまったのか検証することができないのである。
さらに、演奏技法にも変化が見られた。この頃から、長い爪を用いた演奏法が廃れていったのである。歴史家ジョン・リンチ[6]は1662年に次のように述べている。
「より熟練した演奏家 [ハープ奏者] は、慣習的な爪ではなく、指の腹を用いて真鍮の弦を弾いている。爪の奏法は一部の演奏家によって用いられているが、アイルランドで一般的ではなくなったのは、それほど古い話ではない。現在でもこの習慣は廃れたわけではないが、少なくとも野蛮な演奏家にしか用いられていない。特に彼らが、館全体に旋律が鳴り響くように、より大きな音を出したい時に爪の奏法が用いられる[7]」。
リンチはこのように述べているが、爪と指の腹の大きな違いは、音量というよりも音質に差が見られる。爪を用いると、輪郭のはっきりした硬質な音色になるが、指の腹を用いると、反対に輪郭が曖昧な柔らかい音色になる。つまり、爪の方がはっきりと音が知覚されるのである。元来金属弦ハープは残響音が長く、輪郭が曖昧な音色になりがちである。
爪の奏法や装飾音は、この欠点を克服するために長い歳月をかけてアイルランド人が考案したものだったと考えられる。だが、この奏法は次第に野蛮とみなされるようになり、17世紀後半から指の腹による奏法が採り入れられるようになったのである。アイリッシュ・ハープが国際的に流行し、異文化に属する人間によって演奏されはじめた時、アイルランド独自の慣習的な様式が失われていったのであろう。
その後18世紀には、長い爪で演奏するハープ奏者はかなり珍しくなっており、はっきりとこの奏法を用いていたとわかるのは2人しかいない。
17世紀初頭の「伯爵の逃亡」によって、アイルランドの古文化は失われつつあった。さらに17世紀中葉には「クロムウェル侵攻」という出来事があった。
ことの発端は1641年、カトリック教徒によるイングランドから入植してきた新教徒に対する大規模な反乱が起こったことである。反乱の指導者は「伯爵の逃亡」を行ったヒュー・オニールの甥、オウェン・ロー・オニール[8]だった。清教徒革命によりチャールズ1世を処刑し、国政の実権を掌握していたオリバー・クロムウェル[9]は、報復とプロテスタントの保護を名目として1649年、ダブリンに侵攻してきた。クロムウェル軍はリムリックやコナハト地方までも制圧し、1653年までにアイルランド全土を掌握した。
「地獄行きか、さもなくばコナハトか」というクロムウェルの有名な言葉にあるように、カトリック教徒のアイルランド人は殺されるか、シャノン川以西の不毛の地コナハト地方に追いやられた。そのためか、コナハト地方には古いハープ音楽が残されており、この地方のハープ奏者たちから学んだデニス・ヘンプソン[10]は、コナハトが「アイリッシュ・ハープ奏者とアイルランド音楽にとって最も素晴らしい地域」であると語っていた。
クロムウェル侵攻がアイリッシュ・ハープの衰退に拍車をかけたことは間違いないだろう。一説によるとクロムウェルは、アイルランドのオルガンとハープを見つけ次第破壊したとも言われている。この時に絞首刑にされたハープ奏者の例もあったが、これは少々誇張された表現であろう。なぜなら、クロムウェル侵攻後も、それ以前の古いハープ音楽は細々と伝承されており、アイリッシュ・ハープ音楽が完全に根絶やしにされたわけではなかったからである。
イーヴリンやトールボットの例からもわかるように、クロムウェル以降の英国でもアイリッシュ・ハープは演奏されていた。さらに、チャールズ2世の時代の外交官ロバート・サウスウェル[11]はディック・バリー[12]というハープ奏者を雇っており、彼のハープ演奏でサウスウェルの子どもたちが毎晩踊っていたという。
[1] ルーク・ガーノンLuke Gernon (d.1673?)
[2] 『アイルランドの言説 A Discource of Ireland』
[3][Fletcher, 2001] 192 They feast together with great iollyty and healths around, towardes the middle of supper, the harper beginns to tune, and singeth Irish rymes of auncient making. If he be a good rymer, he will make one song to present occasion. 17世紀前半の時点で、すでにハープ奏者が古代の音楽を演奏していたことがわかる言説として興味深い。
[4] ローリー・オドネルRory O’Donnell (1575-1608)
[5] ヒュー・オニール Hugh O’Neill (1565-1616)
[6] ジョン・リンチ John Lynch (1599?-1673)
[7] [Billinge, 1987] 184 The more expert and accomplished performers strike the brass strings wth the tips of their fingers, not with their nails, contrary to the custom, as some maintain, which not long since was common in Ireland. That custom is now, if not obsolete, at least adopted by ruder performers only, in their anxiety to elicit thereby louder notes from the strings, and make the whole house ring with their melody.
[8] オウェン・ロー・オニールEoghan Rua O Neill (1582-1649)
[9] オリバー・クロムウェル Oliver Cromwell (1599-1658)
[10] デニス・ヘンプソン Denis Hempson (1695-1807)
[11] ロバート・サウスウェル Robert Southwell (1635-1702)
[12] ディック・バリー Dick Barry (d.1683)