20. カロラン

19.  18世紀前半のアイリッシュ・ハープ奏者

20. カロラン

コネランの次の世代に活躍し、アイルランドでもっとも有名な音楽の一人にカロラン[1]の名前を挙げることができる。カロランの伝記はウォーカー、ハーディマン、バンティング、オマーリャ等が記録しているが、生没年や生地がそれぞれ矛盾している。オサリヴァンは、今から約50年前にこれら過去の記述を照合する研究を行った。現在よく知られているカロランの伝記は彼の功績によるものである。

カロランの名前は英語表記では、Carrollan, Carrollini, Carrallan, Carolin, Carulan など多様な綴りが存在した。日本語でもオキャロランや、オカロランと表記されることもある。本論では『ニューグローヴ世界音楽大事典』の表記に従い、トゥールロッホ・カロランで統一する。

カロランは、1670年頃アイルランド東部ミーズ州、ノバー近郊の農民の家に生まれた。カロラン一族は、元来ミーズ州近辺に勢力を誇っていたようである。16世紀中葉、ヘンリー8世の時代にはエドワード・オケロラン[2]という人物がペイル地方に土地を所有していた。その後、17世紀初頭のカロラン家の族長は、シェーン・グラナ・オカロラン[3]であり、ジェームズ1世から封土されていた。一時王への忠誠を怠り、土地を奪われダブリン城へ投獄されたこともあったが後に許された。このシェーンは、ハープ奏者カロランの曾祖父にあたる人物だったと言われている[4]。その後17世紀中葉のクロムウェル侵攻によって、土地を奪われたカロラン一族は没落していった。

カロランの父ジョンは貧しい農民だったといわれている。1684年頃、カロラン一家はミーズを去り、西部への移住を余儀なくされた。ミーズ州はクロムウェルによって76パーセントもの土地が没収されてしまったため、土地を追われるようにして西部に落ち延びていったのであろう。

一方でクロムウェル侵攻以降にも、ミーズ州に土地を所有していたカロランの親族もいた。たとえばカロランの父方の叔父であるパトリックは300エーカーの土地、いとこのニールも325エーカーの土地を所有していた。しかし、彼らはその後のウィリアマイト戦争でジェームズ2世を支援したために、結局土地を剥奪されてしまった。

カロランは戦争によって、肉親や親族が土地を奪われ、落ちぶれていく様を目の当たりにしなくてはならなかったのである。

さらにカロラン少年を苦しめたのは、初恋の女性との別れだった。カロランはミーズ州ノバー近郊のクルースタウンの学校に通い、そこで名家の娘ブリジット・クルース[5]と出会い恋におちたと言われている。だが、カロランが家庭の事情で西部に移住しなくてはならなかったため、ふたりは離ればなれになってしまった。後年になってもカロランは、ブリジットを称える歌を友人のチャールズ・オコナーによく聞かせており、ブリジットのために15曲の歌を書いた。初恋の女性への想いは、カロランの作曲への創作意欲を刺激していたのである。後年カロランとブリジットは、西部ドニゴール州の巡礼地、ラフ・デルグ湖で再会することができた。その時の有名なエピソードを紹介しよう。

 

「カロランが島から戻ってくると、ボートを待つ巡礼者たちがいた。カロランは巡礼者がボートに乗る手伝いをしているとき、偶然ある女性の手をとった。その瞬間に、『私の友人の手、これはブリジット・クルースの手だ』と叫んだという。そして、事実その女性はブリジットだったのである。この話は、カロランが直接チャールズ・オコナーに伝えたものである」。

 

後年、カロランは、ブリジットと共にアルスター地方を旅していたという伝承も残されている。カロランとブリジットがラウズ州を訪れたときにパトリック・リンドンが詩を贈っていた。

時代を前に戻そう。カロランの父親は移住先で、ロスコモン州アルダーフォードの地主マクダーモット・ロー家[6]に雇われた。一家が移住してから4年後の1688年、18歳の頃カロランは天然痘にかかり、一命を取り留めたものの失明してしまった。カロラン少年を襲った不幸が、彼の今後の人生を左右することになった。病を患ったカロランは、絶望に打ちひしがれていたことであろう。だが、女主人メアリ・マクダーモット・ローは、哀れな少年を見捨てることなく希望の手を差し伸べた。彼女はカロランにハープの教育を受ける機会を与え、職業的なハープ奏者として生きる道を示したのである。

18歳からハープを学び始めて職業的演奏家となることは、決して容易な道ではなかった。なぜなら、彼はハープを学ぶには年を取りすぎており、当時の一般的な職業的ハープ奏者は、すでに自立している年齢だったからである。この少年が後にアイルランドのハープ史を大きく塗り変える大音楽家に成長しようとは、この時誰が想像し得ただろうか。カロランは3年後の1691年に修行を終え、馬と従者といくらかの金を貰い、放浪の旅に出ることになった。それは奇しくもウィリアマイト戦争が終わった年であり、新しい時代が始まろうとしていた時だった。これがカロランの誕生からハープ奏者として自立するまでの伝記である。

アイルランドにおいてハープ奏者を保護する習慣は、失明した人間が生き延びる道として、一種の福祉としての性質を有していた。天然痘の流行は日常茶飯事であったし、その結果、貴賎を問わず失明してしまうことは決して珍しくはなかった。彼らは音楽家という社会的役割を与えられることによって、自立することができた。それは法的に整備された制度でもなかったし、日本の当道制度やウェールズのギルドのように、ハープ奏者同士が自助組織を作ることもなかった。

盲目になった人間が、すべてハープ奏者の道を選択できたわけではなかった。あるものはバグパイプ奏者やフィドル奏者になったかもしれないし、乞食になる場合もあっただろう。音楽的才能がないものは、当然この職業を選ぶことはできなかった。カロランがハープ奏者になることができたのは、マクダーモット・ロー夫人という親切な人物がいたことに加え、優れたハープ教師に恵まれていたからである。

カロランがマクダーモット・ロー家でハープを習得したことまでは分かっているが、誰が彼にハープを教えたのかまでは知られていない。カロランは3年間でハープの修行を終えたが、これはハープを習得する期間としてはいささか短すぎる。当時のハープ奏者は、一般的に複数の教師についてハープを学んだようだが、カロランはマクダーモット・ロー家以外でハープを学んだ形跡がない。たとえばカロランと同時代のヘンプソンは、天然痘により3歳で失明し、12歳から少なくとも4人の教師についてハープを学び始め、18歳から演奏活動を始めた。彼は6年間の修行を積んでいたのである。ヘンプソンは古い音楽を演奏するたびに、つらい修行のことを思い出してしまうと語っていた。職業的ハープ奏者として自立するためには、それだけ厳しい修行が必要だったのである。カロランがこのような厳しい訓練を受けていたのかどうかは疑わしい。それを裏付けるように、カロランは作曲家としての才能はあったが、演奏家としての才能はなかったと言われている。カロランは外国の音楽を模倣していたので、彼が優れた耳を持っていたことは間違いない。しかし、彼はハープを学び始めた年齢が遅かったので、指がうまく動かなかったのではないだろうか。いずれにせよ、彼は放浪の旅を重ねていく中で経験を積み、音楽家としてのキャリアを形成していったのである。

カロランは音楽活動を開始した1691年、リートリム州レターフィアン[7]のジョージ・レノルズ[8]の家を最初に訪れた。ここで彼は、領主から演奏のまずさを指摘され、作曲を勧められた。レノルズはカロランに近くの丘で行われた妖精同士の戦いについて語った[9]。カロランはその話を聞いた後、最初の作品である≪シーベグ・シーモア≫を作曲した。シーベグは小さな妖精を意味し、シーモアは大きな妖精を意味する丘の名前である。この楽曲の前半は、アイルランド民謡の≪ボニー・クックー≫という歌であり、後半はカロラン自身の作曲である。カロランの時代には、このように既存の曲を改作して作曲を行うことが一般的であったようである。

彼はコネランの≪モリー・マカルピン≫を好んで演奏しており、≪キール夫人≫などの古様式のハープ音楽も継承していた。カロランは当初、民謡や先達のハープ音楽を学んでいたと考えられる。その後、滞在先の領主の館で演奏されていた外国の音楽を聞いて、作品に採り入れるようになったのであろう。基本的にカロランは自分で詩と音楽を作り自ら演じていたが、他人が作った詩に音楽をつけることもあった。≪オルークの饗宴≫という作品はヒュー・マクゴーラン[10]の作詞であり、ジョナサン・スウィフトが英訳したことで有名になった。カロランはスウィフトとも面識があったとされている。

カロランはひとつの領主に縛られることなく、自由に旅をしていた。彼は領主の婚礼や葬儀の際に招かれて、これらの出来事を記念する詩を献呈することが多かった。1958年にオサリヴァンがカロランの全集を出版し、そこには全213の作品が収録されている。だが、彼が見逃していたカロランの曲もあるため、実際にはこれ以上の作品が現在でも残されている。曲のタイトルは、大半がカロランが作品を献呈した人物の名前が付けられている。

彼は、古くからアイルランドにいたゲーリック系の人々や、古くに英国からアイルランドに移住していた「オールド・イングリッシュ」だけではなく、ウィリアマイト戦争後にやってきたプロテスタントの人々のためにも作曲していた。彼は主にアイルランド語の歌詞を書いて歌っていたが、例外的に英語の歌を作ることもあった。

たとえば、彼は1720年頃にロングフォード州、グラナードでフェザーストン夫人[11]に会い≪カロランの献身[12]≫という作品を献呈しており[13]。カロランはアイルランド語を解さないフェザーストン夫人のために特別に英語の詩を書いている。

カロランは当時ダブリンに滞在していたイタリア人ヴァイオリニスト、作曲家のジェミニアーニ[14]と交流があったと伝えられている。その逸話は元々、作家オリバー・ゴールドスミス[15]の1760年のエッセイに見られる。

 

「カロランがあるアイルランド人貴族の館に滞在していた時、とても有名な音楽家がいた。カロランはすぐに彼と演奏の腕を競い合おうとした。冗談交じりに、その館の主は音楽家にカロランの挑戦を受けるように勧めた。彼は主の勧めに従い、ヴァイオリンでヴィヴァルディ[16] の≪協奏曲第5番≫を演奏した。カロランはその曲を初めて聞いたのだが、その直後にハープを手にとって、その音楽家が演奏した同じ曲を一音も間違えることなく全て弾いてみせた。それは彼らにとってちょっとした驚きだった。しかし彼らをさらに驚かせたのが、カロランが彼らに今と同じ趣のコンチェルトを作ることができると請け負ったことであった。そしてカロランはコンチェルトをすぐに作曲した。その作品の気迫と優雅さは、現在でもなおイタリアの最良の作品と比較しても遜色のないものである」。

 

このように、ここではヴィヴァルディを演奏した音楽家の名前は挙げられていない。だが、その後1786年にウォーカーが書いたカロランの伝記の中では、この音楽家がジェミニアーニとされている。カロランとジェミニアーニがお互いに面識があったのかどうか、逸話の中でしか語られることがなく、事実関係は不明である。おそらくカロランを外国の音楽と対抗し得る音楽家として描くために誇張された逸話であろう。

いずれにせよ、カロランがイタリアバロック音楽の影響を受けていたことは確かであり、その影響のもとで独自の音楽を創造していた。たとえば≪オコナー氏≫や≪マイケル・オコナー≫など、カロランの作品には、曲の後にジグと呼ばれる8分の6拍子の軽快な舞曲が組み合わされて演奏されることが多い。これはイタリア音楽からの影響を受けたものだった。

 

カロランは盲目であり、自分の作品を楽譜に書きとめることはなかった。彼の作品は他のハープ奏者やハープ以外の器楽演奏者に口頭伝承されていった。そのようにして、間接的にカロランの作品が出版譜や手稿譜に記されるようになったのだ。1715年頃にスコットランドで編纂されたヴァイオリンのための曲集『ジョージ・スキーンの音楽調[17]』に≪トマス・ア・バーク[18]≫という曲が収録されている。これはもっとも早い時期に記譜されたカロランの楽曲のひとつである。カロランがスコットランドに渡ったことは知られていない。おそらくアイルランドとスコットランドを往来していた音楽家によって、この曲はスコットランドに伝えられたのであろう。

その後、1724年頃にニール父子がダブリンで出版した印刷楽譜にカロランの作品が見られる。これはヴァイオリン、オーボエ、ジャーマン・フルートのために編曲された楽譜であり、ハープのためのものではなかった。この中で直接カロランの作と明記されているのは50曲中4曲のみだが、後世のハープ奏者らによって全27曲にカロランのアトリビュートが与えられている。

18世紀以降、このような楽譜出版業が本格化することによって、アマチュア音楽家の間でカロランの作品は好んで演奏されるようになった。

当時「バラッド・オペラ Ballad Opera」という新しい音楽ジャンルが生まれた。本来オペラはイタリア語で歌われるもので、王侯貴族のための芸術だったが、バラッド・オペラは誰もがわかる英語で歌われ、庶民にも親しみのある民謡が採り入れられていた。特に有名なのが、ジョン・ゲイ[19]の≪乞食オペラ Beggar’s Opera≫であり、18世紀以降、繰り返し上演されてきた。

その後、ゲイの作品が大ヒットしたことを受けて、1729年ダブリンのチャールズ・コフィが≪乞食の結婚 Beggar’s Wedding≫という作品を発表した。この作品にはカロランの≪キャプテン・メーガン≫やコネランの≪モリー・セントジョージ≫や、≪アイリーン・アルーン≫が採り入れられていた。コフィのオペラはカロランの名声を高めることに一役買っていたであろう。

有名になってからも、カロランはダブリンではなく南部マンスターや西部のコナハトを中心に活動していたようである。1718年に、彼はクレア州のチャールズ・マッシー[20]を訪れた。彼はマッシー夫妻のために作品を献呈し、チャールズはオランダ人画家にカロランの肖像画を描かせた[21]。一説によるとこのオランダ人画家は、ファン・デア・ハーゲン[22]であると考えられている。

1720年カロランは、ファーマナ州の良家の子女であるメアリ・マグワイア[23]と結婚し、リートリム州のモヒル[24]に移り住んだ。だが、結婚後も彼は放浪を続け、友人に曲を捧げ続ける生活を送っていた。

1724年カロランはロスコモン州ボイル近郊のジョン・ドゥルリーとエリザベス・ゴールドスミスの婚礼を祝う歌を書いた。エリザベスの父ジョン・ゴールドスミスは、作家オリバー・ゴールドスミスのいとこである。ゴールドスミスはトリニティ・カレッジに入学する前に、2年間叔父の所で過ごしていた。この時に彼はカロランの話を耳にする機会があったに違いない。

1733年、妻メアリ・マガイアが他界しカロランは彼女のために追悼の詩を書いた。晩年のカロランはウィスキーに浸りながら作曲をしていたと言われている。彼の作曲の才能は衰えることなく、彼は西部メーヨー州のジョージ・ブラバゾンやスライゴー州のロフタス・ジョーンズに作品を献呈していた。

カロランはファーマナ州、エニスキレン東部のテンポに滞在中、体調を崩し、アルダーフォードに向かった。自分の死期を悟ったカロランは、初めてハープを学ぶ機会を与えてくれたマクダーモット・ロー家の人々に会いに行こうとしたのである。カロランを援助していたマクダーモット・ロー夫人メアリはまだ存命で、彼を手厚く迎え入れた。医師ジョン・スタフォードらが彼の診察を行い、ブリジッド・マクマナスが看病を行った。ちなみにスタフォードはカロランが≪ウィスキーの領収書≫という曲を贈った人物である。

カロランは最後に≪カロランの杯≫と≪カロランの音楽への別れ≫[25]を作曲したという。彼は死の間際まで作曲活動をしていたのである。ハーディマンによると、19世紀前半まで≪カロランの遺言書[26]≫ という曲が知られていたそうだが、現在ではこの曲は残されていない。

カロランは1738年3月25日土曜日、ロスコモン州アルダーフォードのマクダーモット・ロー家にて68歳で死亡した。その後、彼の遺体はキルロナンのオディグナン教会に埋葬された。カロランの死に際して、友人のハープ奏者兼詩人、チャールズ・マケイブ[27]がラメントを書いた。ウェルドはカロランの葬儀を次のように描写している。

 

「彼の死に際して非常に華麗な通夜が行われ、現在 [1830年頃] でも記憶にとどめられている。葬儀が執り行われた後、10人のハープ奏者が昼夜訪れ、彼の墓の前で挽歌を演奏した」。

 

オディグナン教会には別の頭蓋骨もいくつも転がっていたので、区別するためにカロランの頭蓋骨には額に穴があけられ、リボンが通されていた。当時彼の骨粉は病を治癒する力があると信じられており、近隣の民衆によって彼の頭蓋骨は少しずつ削られて飲用されていた。そのためカロランの頭蓋骨は少し欠けてしまったという。

カロランの頭蓋骨は現在ダブリンの国立装飾美術・歴史博物館に保存されている。2003年頃、筆者は研究目的という条件で特別に見せてもらった。倉庫のような場所に通され、学芸員の女性は奥からガラスケースに入った頭蓋骨を持ってきてくれた。カロランの頭蓋骨と対面した時はそれほど感銘を受けなかった。意外と小さいんだなと思ったぐらいだった。写真撮影はさせてもらえなかったが、頭蓋骨がカロランのものと証明する古い論文をコピーしてもらった。カロランのものと言われてみればそんな気もするし、違うといわれれば違うような、そんな印象だった。

マクダーモット・ロー家に残されたカロランのハープは、後にその家の召使によって焼かれてしまった。もう1台はカロランの息子ジョンがロンドンに持ち去った。しかし、現在カロランのハープであると伝えられている楽器が2台現存している。1台はダブリンの国立博物館に保存されているものであり、もう1台はクロナリスのオコナー家に保存されているものである。ちなみにオコナー家の館は現在ホテルとして利用可能である。カロランのパトロンだったデニス・オコナーやチャールズ・オコナーの肖像画が飾られており、彼らの末裔が歓迎してくれる。

カロランの時代のハープは、トリニティ・カレッジ・ハープやクイーン・メアリ・ハープなどとは形態が異なり、高い支柱の大型の楽器だった。国立博物館のカロランのハープは粗末な作りで、長年放浪の旅で持ち歩いたような使用感がある。これはバンワースのハープのように美しい彫刻が施されたものではなく、実用を目的とした楽器であろう。現存するいずれの楽器も、カロランの肖像画に描かれたハープとは形態が異なっている。描かれたハープは、滞在先の館に置かれていたものかもしれない。現在カロランのハープと呼ばれている楽器は、伝承の中でのみ信じられているものであり、証拠が残されているわけではない。

カロランはメアリとの間に6人の娘と1人の息子をもうけた。カロランの娘シボーン[28]は、サドリー将軍[29]という人物と結婚した。カロランは、英国軍人のサドリーと娘の結婚に反対していたが、最終的に彼らの婚礼に際し≪カロランの引き出物≫という作品を贈っている[30]

彼のひとり息子ジョン[31]は父の職業を継いでハープ奏者となり、父の死後1748年にドゥレイニー博士[32]の援助を受けてカロランの作品集を出版した。彼は予約購読によって、出版に必要な額をはるかに上回る1600ポンドもの大金を集めることに成功したという。この曲集には61曲のカロランの作品が含まれていた。この曲集は18世紀末まで存在が知られていたが、残念ながら現在では消失している。ジョンは人妻と不倫しており、この曲集の売り上げと父のハープを持ってロンドンに行った。そこでハープ教師として生涯を終えたという。

ジョンには、フランシス[33]という息子がいたがハープ奏者にはならず、1770年代から80年代にかけてダブリンで製本所を経営していた。ちなみにフランシスは1774年にローマ・カトリックからプロテスタントに改宗している。

カロランの孫娘にはマルヴェイ夫人[34]がいたことが知られている。彼女はカロランの伝記を書いたウォーカーに情報提供している。また、カロランの曾甥には、メイヌース・カレッジのアイルランド教授だったポール・オブライアン神父[35]がいる。

 

カロランの斬新でありながら、どこかアイルランド的な要素を残した音楽は、当時の聴衆の心を見事にとらえた。カロラン以降のハープ奏者たちは彼のひそみに倣い、進んで外国の音楽をハープで演奏するようになった。彼は一代で、アイリッシュ・ハープのレパートリーを大きく刷新したのである。もしカロランが現れなかったら、アイルランドのハープ音楽はもっと早い時期に見捨てられていたに違いない。聴衆の趣味の変化に誰よりも早く、敏感に反応したカロランによって、アイルランドのハープ音楽は19世紀後半まで生きながらえることができたのである。

カロランはアイリッシュ・ハープ史における綺羅星のような存在であり、作曲技法を後世に伝えることがなかった。つまり、彼の作品は他のハープ奏者や音楽家、歌い手によって模倣されることによって伝承されたが、作曲行為自体は次の世代に伝えられることがなかったのである。その結果カロランの死後、ハープ音楽は新しく作曲されることなく、衰退の一途をたどることになった。カロラン以後も作曲は行われていたのかもしれないが、18世紀後半の聴衆がカロランを神聖視しすぎた結果、新しいハープ音楽は陰に埋もれてしまったのかもしれない。あるいは、カロランの作風を模倣した亜流の作品群が現在カロランの作として伝承されている可能性もあるだろう。

カロランの没後、ヘンデルがダブリンで≪メサイア≫の初演を行った。当時のアイルランドの人々は、カロランをヘンデルに比肩する国民的音楽家に仕立て上げようと思っていた。その結果、作者不詳の様々な古いハープ音楽をカロランの作として、彼がアイリッシュ・ハープ音楽を集大成したことにしようとしていたのである。カロランがその他のハープ奏者と比べてもっとも特異な点は、彼が死後もなお影響を与え続けていたことであろう。

 


[1] Turlough O’Carolan (1670-1738)

[2] エドワード・オケロラン Edward O’Kerrolan

[3] シェーン・グラナ・オカロラン Shane Grana O’Carrolan

[4] [Hardiman, 1831 / 1971.] xlii 脚注 In 1607, Shane (John,) Grana O’Carrolan, “chief of his sept,” became bound to the King in £100 and 100 marks, for the appearance of “certain of the Carrolans, his kinsmen.” But having been afterwards himself committed prisoner to the castle of Dublin, the others, “affrighted, omitted their appearance,” and his recognizance became forfeited. (…) This Shane Grana is stated to have been the grandfather of John, the father of the bard.

[5] ブリジット・クルース Bridget Cruise

[6] マクダーモット・ロー家 MacDermott Roe

[7] Letterfian

[8] ジョージ・レノルズGeorge Reynolds

[9] [Hardiman, 1831 / 1971.] xlvii ハーディマンによると、地元の人は「妖精 Fairies」とは呼ばず、「よき人 Good People」あるいは「ジェントリ Gentry」と呼んでいたという。

[10] ヒュー・マクゴーラン Hugh MacGauran

[11] フェザーストン夫人 Miss Fetherston

[12] ≪カロランの献身 Carolan’s Devotion≫

[13] [Flood G. , 1927] 230 フラッドは1719年に作曲したと述べている。 A short time previously (1719), he composed a splendid air for Miss Fetherstone, of Ardagh, County Longford, chiefly remarkable as being the only melody set by O’Carolan to English words.

[14] ジェミニアーニ Francesco Geminiani (1687-1762)

[15] ゴールドスミス Oliver Goldsmith (1730-1774)

[16] ヴィヴァルディ Antonio Lucio Vivaldi (1678-1741)

[17] 『ジョージ・スキーンの音楽帳George Skene’s Musick Book

[18] ≪トマス・ア・バーク Thomas a Burk≫と

[19] ジョン・ゲイJohn Gay (1685-1732)

[20] チャールズ・マッシー Charles Massey

[21] [Hardiman, 1831 / 1971.] lx-lxi In 1720 he went to Donass, in the county of Clare, the seat of Charles Massey, Dean of Limerick, who was recently married to Grace, the daughter of Sir CharlesDillon of Lismullen, in the county of Meath. Here he was kindly entertained by his countrywoman; and his grateful muse celebrated the nuptials, by two pleasing compositions, which bear the names of “Dean Massey” and “Mrs. Massey.” To this visit we are indebted for the only original portrait of Carolan now extant*.

脚注に、Dean Massey wishing to retain some memorial of a man whose genius, and amiable manners, excited at once his admiration and esteem, caused this portrait to be painted by a Dutch artist, who was then in the neighbourhood.

[22] ファン・デア・ハーゲン Willem van der Hagen (1676-1745)

[23] メアリ・マグワイア Mary Maguire (d.1733)

[24] モヒルMohill

[25] ≪カロランの杯Carolan’s cup≫と≪カロランの音楽への別れCarolan’s Farewell to music≫

[26] ≪カロランの遺言書 Last Will and Testament≫

[27] チャールズ・マケイブCharles MacCabe

[28] Siubhan Ni Chearbhulan

[29] サドリー将軍Captain Sudley

[30] DOSB I, “Susan Carolan’s dowry, or Captain Sudley. Turlough Carolan’s dowry for his daughter on the occasion of her marriage to a member of the King’s Army against his will” or “against her will”

[31] ジョン John Carolan

[32] ドゥレイニー博士 Patrick Delany (1685-1768)

[33] フランシスFrancis Carolan

[34] マルヴェイ夫人 Mrs. Mulvey

[35] ポール・オブライアン神父 Father Paul O’Brien (1763-1820)

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